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タイトル-湯先生の部屋

中国の食文化
 
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犬も食わない 10/03/05
天津名物

天津名物といえば『天津甘栗』。これは日本でも良く見かけますね。でも、天津にはもっと有名な名物があります。「天津に行って狗不理包子を食べなければ、天津に行ったことにならない」とまで言われている包子(肉まん)です。
天津に行かれた方は『狗不理包子』の看板を必ず見かけたと思います。狗不理包子は、日本のコンビニで売られているものより小さめの肉まんですが、一つ一つ丁寧に作られます。中身は豚肉にネギや生姜を加えて独特のスープを加えます。皮は15度くらいに保たれた水でしっかり捏ね、均一の厚さにして8.5pの大きさに伸ばします。これで餡を包むのですが、ヒダは15と決められていて、白菊の花のように美しく仕上げなければなりません。これを専用の蒸し器で5分蒸せば、ジューシーでしかも決して脂っぽくないアツアツの包子の出来上がりです。

 
狗不理とは 「狗不理」とは「犬も食わない」という意味。犬も食べない包子(肉まん)が何故そんなに有名なのか。それには、こんな逸話があるのです。
清朝の時代、天津郊外の武清県楊村に高貴有という少年が住んでいました。彼は小さい時から意地っ張りで、一度機嫌を損ねたら9頭の牛が引っ張っても梃子でも動かないという頑固な性格でした。ある日、高少年が例によって癇癪を起こし、父親が何と言おうと言う事を聞きません。母親が声を張り上げて諌めても一向に相手にしません。呆れ返って「まったくお前の強情張りは犬も相手にしないよ!」と嘆くしかありません。それで高少年に狗不理というあだ名がついたのです。
 
包子作り

またたく間に月日が過ぎ、高少年は14歳になりました。意地っ張りは相変わらずで、父親は村の中で何か問題を起こしてはいけないと心配して、天津に行かせて何か技術を身につけさせようと考えました。天津に着くとちょうど良い具合に劉という人の肉まん店が店員を募集していました。さっそく高少年は劉肉まん店で働くことになりました。
劉さんの肉まん店は運河の脇にあり、運河で生活する船乗りや船員を相手に、規模は小さいながらも繁盛していました。高少年は意地っ張りという癖はありましたが、小さい時から苦労には慣れていましたので一生懸命働き、店長や先輩の料理人たちも大変喜びました。それに高少年はなかなか賢く、一度教わったことはすぐに覚えましたので、店では包子の作り方をしっかり学ばせたのです。熱心に学び、店長や先輩たちも心を込めて教えましたので、高少年の包子作りの腕はメキメキ上達しました。

 
あだ名が幸い

三年が過ぎ、高貴有は包子作りの全ての技に精通したので、独立して包子店を開くことになりました。包子作りの腕が確かで、怠けることなくまじめに働きましたので、高貴有の作った包子はとても美味しく、評判はあっという間に広がっていきました。包子を食べに来る人もドンドン増え、人々は彼をあだ名の「狗不理」と呼んで親しみました。そして彼の作った包子も「狗不理包子」と呼ぶようになったのです。こんな変わった名前が商売繁盛につながるとは思いもよらないことでした。
高貴有の店はますます繁盛していきました。それにつれて「狗不理」という名が相応しくないように思い、「徳聚号」というきれいな名に改めたのですが、人々は相変わらず「狗不理」と呼び続けていました。

 
西太后も

当時の記録によると、袁世凱総督もこの狗不理包子を食べて絶賛し、さっそく宮廷に持って行き慈禧皇太后(西太后)に献上しました。西太后は一口食べると顔をほころばせ、「こんなに美味しいものは他にない。これを食べたら長生きできる。」と褒め称えました。それ以来、狗不理包子の名声は大きく広まったのです。

 
海外要人も 百数十年の変遷を経て、現在「狗不理」は大小のレストラン、ファーストフード店の他、冷凍食品の生産、商品の小売や流通、調理学校など中国内外に70以上の会社を持つ企業集団になっています。
発展に伴い、海外の要人の接待にも多く使われています。カンボジアのシアヌーク殿下が天津に来られた時は、特別に店の料理人が出張して包子を作り、殿下はこの店の伝統的な食べ方の通り、お粥と漬物で召し上がったそうです。またアメリカのブッシュ前大統領が中国に駐在していた時、わざわざ狗不理包子を食べに天津に来られたこともありました。
 
歴史上の
メニューも
現在では、三国志で有名な劉備・関羽・張飛が義を結んだ時に食べたという聚義包、曹操が食べた翡翠肉丁包、明の万暦皇帝が召し上がった海鮮水晶包、清の乾隆帝が食べられた五丁包、西太后が好まれた豚肉まんなど種類も豊富になっています。  
 
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