ホームページへ

タイトル-湯先生の部屋

中国八大料理
 
湯先生の部屋TOP頁へ
 
四川料理 10/10/05
『辛い』
だけじゃない

四川料理といえば辛い中華料理として有名ですが、これは四川省の土地柄のためといわれています。この地方は四方を山に囲まれた盆地で湿度が高く、土地の人は辛いものを食べて汗をかいて発散させることが健康法だったのです。
確かに四川料理は麻辛(痺れるような辛さ)の味を特徴としています。料理に使う香辛料の数や種類は群を抜いています。ところが、それだけではないのです。四川料理の歴史は古く、幾多の変遷を経ながら様々な料理を生み出し、その一つ一つが独特の味なので「一菜一格、百菜百味」(一つの料理に一つの風格、百の料理に百の味わい)とまで評されているのです。

 
20種以上の
味付け法

四川料理の基本の香辛料は三椒(唐辛子、胡椒、花椒)と生姜です。これに色々な調味料を組み合わせて20種以上の味付けをします。代表的なものには、干焼、魚香、怪味、椒麻、紅油、姜汁、糖酢、茘枝、蒜泥などがあります。
調理法も数多く、例えば「小煎」や「小炒(強火で短時間炒める)」、「干扁(中火で材料を乾燥させるようにひっくり返しながら炒める)」、「干焼(中火でゆっくり煮込む)」など火加減や時間などに微妙な配慮をしています。

 


【四川料理の歴史】
多種多彩な四川料理も、一朝一夕に出来上がった訳ではありません。四川料理の変遷の後を辿ってみると、食文化だけでなく、中国の歴史が窺われてきます。

 
移民がもたらした
高文化

1.元代以前
戦国時代の末から南宋末までの間、四川省には3度にわたる大規模な移民の流入がありました。1回目は秦が蜀を滅ぼし始皇帝が全国を統一した後の秦の人々や各国の豪族たちの移住です。2回目は東漢末の動乱の中、劉焉や劉備が支配していた中原の人々の移入。そして3回目は唐末の混乱期の中原の人々の大量の移入です。この3度の移民の流入は、いずれも高い文化を四川にもたらしたという共通点があります。こうした移民により四川の文化は大きく発展し、その中で独特の食文化が生み出されました。

≪秦、西漢時代≫
この300年余りの間に四川の経済は大きく発展しました。成都を中心として多くの物産が集まり飲食業も盛んになりました。揚雄の『蜀都賦』には「五味を調え、各地の珍しい食材を集めて[五肉七菜]の宴会料理を作った」と当時の様子が記されています。中原の「五味調和」の食文化を基礎に、古典的な四川料理がこの時代には既に現れ始めていたと考えられます。ただし、こうした料理はあくまでも上層階級のもので、下層の一般庶民は以前通りの食生活が続いていました。この時代の四川文化は秦・漢の先進文化に同化され、まだ独自性は見えてきません。

≪東漢末、魏晋時代≫
東漢が成立してからも四川の経済文化は発展し続け、四川料理にも特色が現れてきました。東漢時代の副葬品の中にあった『庖厨俑』には水餃子が載っています。このことから当時既に小麦の加工技術がかなりの高水準に達していたと考えられます。
三国時代になると成都は政治の中心地となり、2回目の移民によって経済文化は一層発展しました。食生活も格段に豊かになり「尚滋味(味を重視する)、好辛香(辛さと香りを好む)」という特色をもった独自の料理体系が、この頃に出来上がったと考えられています。

≪隋、唐、五代時代≫
西晋末の戦乱のため多くの人々が東に移り、この地の経済文化は大きな打撃を受けました。隋・唐の時代になって全国が統一されると生産性が回復し、経済は空前の発展を遂げます。四川地方の人口は増加し、そのための街作りも盛んに行われました。人々の生活も豊かになり、食文化も新たな高みに至ります。唐代の詩人・杜甫も四川で官職にあった時、多くの四川料理を楽しみ、その詩に詠み込んでいます。
唐代末の混乱期には多くの文化人がこの地に避難してきましたので、さまざまな文化交流が行われました。当時の記録によると、貴族や文化人たちは「厨膳」、「野宴」、「船宴」、「遊宴」など数多くの名前の宴会を開いては四川料理を楽しんだようです。これも食文化の水準を一層高める機縁となりました。

≪北宋、南宋時代≫
北宋の時代になっても四川の経済文化の繁栄は続き、この時期に四川料理は全国に広まっていきました。このことは四川料理が一つの独立した料理体系として確立したことを表しています。この時期に四川料理を広めるのに活躍した一人に蘇軾がいます。彼は実際に色々な料理を作り、それを詩にしたものが数多く残されています。また陸游も四川の官職に在ったとき四川料理の虜になり、50首以上の詩を残しています。このようにして東漢末、魏晋時代に始まった四川料理は、約千年の歳月を経て、ようやく独自の料理体系を完成させたのです。

 
受難の時代

2.元代以降

≪元・明時代≫
宋代末に蒙古軍が四川に侵入して51年にわたる戦争が繰り広げられました。この間、四川の経済文化は甚大な被害を受け、多くの人々が長江中下流地域に移動していきました。南宋中期(1175年)に1290万人だった人口は、元初(1290年)には16.5万人までに減少しました。
明の時代になると下層階級の人から四川に戻り始めましたが明の後期(1578年)でも人口は310万人程度で当時の全人口の6%に過ぎませんでした。

≪清(中期まで)時代≫
その後、清の軍隊が四川に侵入し明の残党との戦争が続き、四川の人口は再び減り続けて50万人ほどになりました。清の時代になると政府は大規模な移民を組織し、移民開始から143年後の乾隆帝の時代(1787年)には857万人に達しましたが、最盛期の南宋時代には遠く及びませんでした。しかも移民の多くは文化水準が高くなかったので、多くの文化人が集まった唐・宋の時代とは比べものにならないほどでした。
こうした状況のなかで四川の食文化の地位も凋落していきました。この時代に新しく北京に開店した四川料理店の記録や四川料理に関する著述が全く残っていないのも不思議とはいえません。明末期に成都を訪れた張瀚はその零落ぶりを見て、一世を風靡した四川料理は残っていないだろうと推測しています。

 
新しい
四川料理へ

≪清(後期)時代≫
清の乾隆帝の時代、四川で長年官職を務めた李化楠は余暇を利用して民間・家庭料理の調理法を収集しました。その後、彼の息子の李調元はこれを整理して『醒園録』を著しました。この著書はそれまでのものとは違い、食材の選択や調理法、その手順を詳しく記載していましたので、民間の料理人や家庭での調理に大いに役立ちました。
それまでの中国では、料理というと宮廷料理と民間料理に分けられますが、一般の調理人は宮廷の料理人に遥かに及びませんでした。一般の料理人には金持ちに雇われた専業の料理人や、知識人の家庭で色々な料理を楽しんだ人たちがいましたが、各自が工夫を凝らして作り上げた技術が受け継がれなかったことが原因といえます。こうした中で、北魏の崔浩が母の経験を記録した『食経』と『斉民要術』が多大な役割を果たしたように、『醒園録』は四川料理の記録として重要な意味を持っています。
四川経済の復興と共に、四川料理も蘇ってきましたが、この頃は移民してきた各地の一般庶民の影響を受けたものでした。特に魯菜と江浙菜の影響が強く、満漢全席を簡易化したようなものでした。以前の四川料理の特徴であった「麻辛」の味も消されてしまいました。
現在の四川料理の原型が出来たのは1861年から1905年にかけてと考えられます。この時期、四川は政治的にも安定し、海からも離れていたので西欧諸国の影響も受けにくく、人口は南宋時代の最盛期を超えて4400万人に達しました。清政府は豊かな四川を重視して、丁宝驕A張之洞、錫良などを送り込んで学術・文化活動を活発にさせました。こうした中で新しい四川料理が生み出されたのですが、以前の四川料理の影響はほとんどないものでした。

≪現代の四川料理≫
魯菜と江浙菜の影響を受けて出来上がった新しい四川料理は「麻辛」の味をなくしたものでしたが、これは全体の3分の2を占めるものでした。他にもあらゆる地方から来た移民たちの食文化も色濃く取り入れられていました。また明末にアメリカから唐辛子が輸入されるようになり、百年の間に一般庶民の食生活に深く入り込んでいましたので、これが現代の四川料理の大きな特徴とされるようになったのです。
現在の四川料理が出来上がったのは、清末から清政府が始まった時期(1906年から1937年)と考えられます。政府が進めた文化政策、民間の移民が伝えた各地の料理、そしてアメリカから伝わった唐辛子は互いに影響を与えながら、76年という短期間で、中国四大料理の一つを作り上げたのです。
そして多彩な味の料理群は「食は広州に在り、味は四川に在り」と呼ばれるようにまでなったのです。

 
2つの流派

同じ料理を作る場合、伝統的な作り方に準拠するものと、新たな工夫を加えるものでは違いがあります。例えば四川料理の回鍋肉では、豚バラ肉・ニンニクの芽・豆板醤・甜面醤を必ず使う伝統派と、豚肉や野菜は何でも良く、甜面醤の代わりに砂糖でも良いという新しい形があります。もちろん回鍋肉という基本は変わらないのですが、作り方や出来上がりが違ってくるのです。四川料理では「蓉派」と「渝派」という2つの流派に分けられています。
【蓉派】
伝統的な調理法を忠実に守っているもので、食材や調味料の選択も厳格です。穏やかで円やかな味付けのものが主です。
【渝派】
食材や調味料を大胆に使い伝統にはとらわれません。家庭料理や露店の料理が起源で、「麻辛」味や目新しいものが多くあります。

 
高級料理から
家庭料理まで

幅広い四川料理は大きく4つのジャンルに分けられます。高級宴会料理と一般宴会料理は「大吃」、一般大衆料理と家庭料理は「小吃」と呼ばれます。それぞれが歴史を持ち、また互いに影響しあいながら、四川料理という完全な体系を形成し、今もなお発達し続けているのです。

 
 
湯先生の部屋TOP頁へ    

前頁へ ホームページへ 次頁へ